間違いだらけの文芸批評

好きな作家、作品(主に小説)について、不定期で大いに改良の余地がある分析・批評を行う不毛なブログ。見ない方が良いよん。

人間の条件

小説と映画はよく親しんでいる方だと思う。特に暇があれば本を読んでいる。そのせいで周りの人は僕のことを幾らか思慮深い人間だと捉えているようだ。とんだ買い被りである。小説が好きであることとその小説を100%理解できていることはイコールではない。僕は割と感覚派の人間、有り体に言うと馬鹿なので、小説は物語の雰囲気とか台詞の心地よさに惹かれて読んでいる。深い読みは構築できない。勿論、中にはスッと理解できるような本もある。例えば、梶井基次郎などは半分は解るが、もう半分はチンプンカンプンである。小山清はひと昔前に生まれた僕自身じゃないかってぐらい解る。解りすぎて辛い。サリンジャーも同じ。逆にヘミングウェイはよくわからない。でも「老人と海」は雰囲気が好きだ。夏目漱石はチンプンカンプンだが、一応読んでおこう、教養ってやつだ・・・僕の感じることなど、大抵この程度のもの。それを落ち着いた口調と柔和な表情でごまかしてなんとか自分の価値を底上げしているわけだ。「取り繕っているだけ」なんて言わないでほしい。この思慮深いイメージが無くなってしまったら、僕などは卑小で意気地なし、かつ無能で醜悪なゴロツキ同然なのだ。僕の実態は二足歩行はしていても、人の尊厳などとうの昔に失った人非人。本心でそう思う。自分を嫌いになるまいと日々、努力し続けているがどうしたって無理なことは無理だ。


バイト先のスーパーに少し想い始めた女の子がいる。岩手県生まれ、というプロフィールが腑に落ちる色白の小柄な子だ。僕より2歳下。僕は自分がシフトの日に彼女がいると心なしか安堵する。普段仏頂面で接しているお客さんにも笑顔を向けられるようになる。その日のコンディション如何では、荷物を詰め終わった袋を「重いのでお気をつけください」と言いながら渡せたりする。気恥ずかしくて話しかけられない小さな子供にもにこやかに話しかけられたりする。それぐらい、好きな人というのは自分にエネルギーを与えてくれることなのだなあ。想い人が出来るたび思い直す。いつか、伝えよう伝えようと考えるのだが、なかなか話しかけられない。彼女から話しかけてきてくれても目を合わさず冷たく接してしまう。彼女にしてみれば僕のことなんか眼中にないはずなのに。その度にああ、俺は本当に、なんでこんな情けないのだろうと嘆かわしい気持ちになるのだ。自意識過剰と言えばそれだけの事だが、しかし本当に自分が嫌いな人間が誰かに思いを伝えようというのは無茶な話と言えば無茶な話ではないか。自分でさえ自分が嫌いなのに、それを他人に好きになれと要求しているようなものなのだ。これはもう、自分に自信を持てるようになるまでは解決しようのない問題である。その為にも僕は貧相な自分の脳みそに日々、活字を詰め込むのだろう。最近は筋トレも始めた。元々、骨格が大きな方なので肉体はまずまず見苦しくない出来である。これを日々のトレーニングで絞り込んでいく。僕はムキムキマッチョマンなんかよりももっと無駄が排された鎧のような肉体が欲しい。しかし、もっと大きなメリットは生活にメリハリがつくという事だろうか。何もかも引き締めなければ僕は一生人間以下のままだろう。キモは生活の骨格を極めてシンプルに組み立てる事。肉付けなんか後からいくらでも出来るのだから。

自分語り

僕は東京という世界屈指の大都市の片隅で誰にも注目されることのない日々を過ごす小市民である。平日は大学の講義に出て、夜は週2~3のペースでスーパーでレジ打ちのアルバイトをやっている。休日もバイトがあるので、図書館で本を読んだり、家で映画を見たり・・・。何の能力もない、外見に華があるわけでもない僕の生活はそれはそれは質素なもので友人だって数えるほどしかいない。女友達はいない。彼女は欲しいけど、話しかける勇気も出ない。自分はとことん普通だと思う。別に不満もない。とりあえずはこれで中々満足している。寺山修司の戯曲や小説にはしばしばアメリカの養老院で「誰も自分に話しかけてきてくれない」というメモを残して自殺する老人が出てくる。僕の将来はなんとなくこう言う寂しい結末に終わりそうな予感もする。でも、今は差し当り問題ない。話しかける相手がいない悩みは友達を一人でも作れば解消される。では、その友達が亡くなってしまったら・・・?僕もそんなに長生きするつもりはない。60歳になる前に死にたい。今の日本の平均寿命は80歳を超えている。香港に抜かれる前は世界一位だった。平均寿命を競うというのも変な話だ。どの国も寿命を伸ばそうとするから、やれ、「タバコはやめろ」だの「酒はよくない」だのといったアホくさい記事がネットに氾濫するようになる。そういう三文記事を書く連中には一言だけ言っておく。「そんなこと知ってるよバカ」僕のように早く死にたがる国民にはありがた迷惑だ。そのうち、義体とかクローンとか「攻殻機動隊」や「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」でしか見たことのなかったSFじみたギミックがネットニュースを賑わせるようになるだろう。(多分シリコンバレーとかから発信されるだろう。今の時代、起業家志望の若者が生まれて最初に覚える言葉は「こんにちは」とか「ありがとう」よりも「シリコンバレー」か「クリエイティブ(笑)」が先である。)僕だけはそんなニュースに唾を吐けるようでなければならない。

こんなに普通で面白みのない自分でも一つだけ個性的な趣味がある。それは釣りだ。釣りと言っても、近所の川に釣りに行くのでなく、海外なのである。海外には日本にいない大魚がたくさん生息している。僕はこれらの魚を図鑑や本で見つけては、その生息地に行くための計画を立てる。バイトをしているのも旅の資金を貯めるためだ。そして、実際に困難を乗り越えて狙った大物にたどり着けた時、普段の生活では到底味わえないような無類の感動を覚えたりする。大学一年生の時に初めてタイに「虹色の雷魚」を釣りに行って以来、僕はすっかりこの釣り旅に憑かれてしまったようだ。これはあくまで自分のためにやっている(いつかブログで書いたりするかもしれないが)。けれども、こういう物珍しい旅をやっていると、割と話のネタにはなったりするもんである。この趣味がきっかけでいくらか話すようになった知り合いだって数人はいる。僕にとってこの釣り旅は、さしづめ自分の味気ない生活のオアシスであり、また社会と自分を繋ぐザイルの役割を果たしてくれてもいる。足早に目の前を通り過ぎていく人々にキャンパスポーチを抱えていたり、スーパーのエプロンを着たりしている僕が「止まれ」と言っても、誰も振り向かない。中には失笑する人だっているかもしれない。でも、65Lのバックパックを背負い、グリップがボロボロになった竿を手にしていたら中には話しかけてくれる人だっているかもしれない。

僕は今年で大学四年生になる。成績悪くて一年留年するから、就活は来年から始まる。僕の数少ない友達の中にはもう幾つか内定をもらったという人もいる。公務員の試験に向けて猛勉強している人もいる。彼らは僕とは違って、多くの人とスマートな交流のできる社会性のある人間だ。いくら同じ大学だからって、それがそのまま僕の将来を確約してくれる根拠にはならない。昔、僕は仕事を得ることで、社会と自分を結合することに若干の躊躇いがあった。仕事というのは結局代理でしかない。美味しい料理を作れない人のために料理人がいて、お金の管理が苦手な人のために銀行員がある。都市では米や野菜は作れない顔も知らぬ誰かさんのために、田舎の老夫婦が年中休まずに作物を作る。僕は自分のことを考えるのに精一杯で代理人なんかやっている暇はない。存在自体に興味のない他人を何だってわざわざ僕が代理してヤンなきゃいけないんだろう?(当然のことながら、僕自身、誰かが作ってくれた食べ物を食べ、誰かが作ってくれた服を着て、銀行には勿論口座を持っている。自分を棚に上げるのは得意だ)こういった極めて稚拙な悩みを本気で考え込んだ時期があった。今はこう考えている。「自分の代理人をしよう」。寺山修司の戯曲「さらば映画よ」を僕なりに解釈してみて学んだことだ。それは自分を生産者と消費者に分ける行為である。自分が食べたいトマトを作る。自分がお金を預けたいと思う銀行を作る。自分が食べたいと思うカップラーメンを作る。そこに他人は必要ないが、「俺もそれ、食べてみたいな」と言って近づいてきてくれたら・・・悪い気はしないよね?